昭和51年07月30日 朝の御理解



 御理解 第93節
 「氏子は神の守りをしておる者を神と心得て参詣する。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておくことはできぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心にかみしもを着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならぬぞ。」

 これは取り次ぎに従わせて頂く者に対する、教祖様の御理解だと思います。教祖様のこのお言葉を私がまぁこの様に頂いたとして、頂かなきゃならんと思うんですけれども、そういう意味で合楽の場合はおかげを頂きまして、例えば神の前をあけておくということはない。これはまぁそのところだけは行じられておる訳であります。万事に行き届いた信心をせよということになると、まぁ不行き届きの事ばっかりでございますけれども、そこをお詫びさせて頂いて、まぁ御用にこの様に使うて頂いておる訳であります。
 後は信者に対する例えば同不同があってはならない、みんな神様の氏子じゃ氏子としての取り扱いをしなければならない、見下したり手慣うたりしては尚更の事出来んのだという、取次者に対する心得、心掛けを教えておられる訳であります。そこで私は今日ここの九十三節を頂いて思う事は、確かになるほど教祖様のお取り次ぎを頂く人達はね、もう本当に神と心得てお参りしたであろうということでございます。大谷の生神様として、皆んながお参りをした事だと。
 今日はその内容ということより、ここにご自分がお使いになっておるご自身の実感であろう、教祖様のご実感であろう、皆んなが生神様と参って来る、その事を取り上げてあるのだろうと思う事は、氏子は神の守りをしておるものを、神と心得て参って来ると言うところである。だからみんな教祖様のような御信心が出来れば、参って来る皆んながそれこそ、神様と心得生神様と心得て参って来るのでしょうけれども。例えば御結界は疎かにする又は実意を欠いで。
 まぁ言うならここにこうであらなければいけないぞと、いうことの反対でしかない先生方が若し、まぁばっかりだと思うんですけれどもね、どげん思うたっちゃ神と思うて心得て参ってこられない、ということになるのじゃないでしょうか。ここの誰々さんが、親先生親先生とこう言うて、もう本当に親先生としての頂き方の出来る人ならば、やはりおかげを受けます。
 けれども口では親先生と言いよるけれども、まぁ大坪さんとして頂きゃ、やはり大坪さん方のおかげしかない。今日私はここのところをね、あのう頂いておる方達がおかげを受けておる事を聞いて頂こうと思うんです。昨日一昨日、宮崎の網さんという方から手紙が参り、いつも電話でお届けがあり、もう懇ろなお手紙いつも、まぁ大変宮崎の方に合楽のごひれいが、段々こうそれこそシャープな切れ味と言う様な事を申しますね。いうならば鋭い切れ味、鋭いということだそうです。
 本当に鋭い神様のおはたらきが、宮崎地区に起こっておるということであります。もう本当にそれこそ切って捨てたような、スキッとしたおかげですねあちらの皆さんが頂いておるおかげは。この頃からもうう黒木さんという自動車のセールスに回っておられる方が、ちょうど大祓いの前日にね、ここで交通安全祈願を致します前日に、一日には必ず月参りをされますから、自分の自動車を自動車工場に入れて、まぁ悪いところがあるならちょっと直しといてもらわんならんと言われたので、その日は会社の車を借られた。
 その会社であるお店であるところに借りて暫くしたら、先方の方からこうそのう千鳥足のようになってやってくる、自動車が居眠り運転じゃった。よけようにもよけようがない。あっと言う間に正面衝突。もう自動車はめちゃくちゃになりましたそうですけれども、まぁおかげを頂いてまぁ感じられた事ですね。初めて交通安全祈願の御神米をつけていない車に乗らせて頂いたら、もうすぐそういう事故にあったと言う。いかに日頃がおかげ頂いておるということが、段々感じられて。
 まぁ無事であった事をお礼申し上げられておられたら、本当に三百六十五日一年があるなら、三百六十四日という間は、もう毎日自動車を使わん事はないのに。その三百六十四日という間、この様な神様の御守護を受けておった事を、最後の日に他の車に乗らせて頂いて、起きた事故から感じたと言う訳です。あぁおかげ頂いたとか、大難を小難のおかげを頂いたとか、ただおかげ頂いたということだけではなくて、その一年間の有り難さが、一辺に込み上げて来たと言う訳です。
 まぁ本当に合楽の金光様ちゃ有り難い神様だと、思うてもう歩かれよったら、もう有り難とうして有り難うしてたまらじゃった。ところがその一日有り難とうして、有り難とうしておられた日に、二十六台の車が売れたと言うのです。もうトヨタですかね、のまぁ出来てもう販売のまぁ出来てもう前代未聞、初めて個人で二十六台も車を売ったということは、もう後にも先にも初めてと言われるような、おかげを頂いたということを、私があのうその翌日でしたから大祓い式の時にね、聞いて頂きました。
 もうそれこそシャープな切れ味でしょうね。すさまじいまでの神様のはたらきという意味なんです。ならこの例えば黒木さんにしろ、網さんにしろ、もう本当に合楽の生神様として頂いておられるんです。十日に一辺ずつくらい皆んなあちらの御信者が集まって「おかげの泉」勉強会ということを提唱なさいます。もうそれでもう度々それはもうあのう言うなら、もう本当とや思われないおかげを頂いておられます。この網さんなんか去年の暮れに大きな魚の卸、それから問屋もしておられる。
 なら去年の末にはもう倒産という、もう倒産する外ないと言う様なところを、初めてここの事を知らせて頂いて、年末の忙しいのに夫婦で参って見えたのが初めてでした。そしてもうそれこそ日々が不思議で不思議でたまらん、不思議の連続と言う様なおかげで、この頃から沢山な税金の事のであったんですけれども、もうそれこそありゃせげな事私があんまり読んでも分からなかったから、末永先生に読んで貰ったんですけれども。
 よく意味を頂いたらもう本当に紙一重、紙一重で沢山の税金を収めるか収めないかと、本当紙一重のところでおかげ頂いたという、あのうお礼の手紙が来ました。その内容を聞かせてもらって、ほんなこつそげなこつがあるじゃろうかと、言う様なはたらきを受けておられるんですね。昨日まいりましたこの手紙もやっぱりそうです。昨日私はそれをいっちょ読ませて頂こうと思うて探したけどないんです。昨日敬親会の時読ませて頂きましたから、あのうあちらに持っていっとった。
 それにはこの頃から宮崎に新しい、何んか大きな観光ホテルの様ななんか大きなビルが出来た。そこから魚を入れてくる、魚一切食料品なんかでもでしょう、を入れてくれるようにそのあったから、その受けてよいか悪いかというお伺いがあった。ところがそれは受けたがよかろうということであった。ところが受けるためには四百万という前金がいる。金が収められん。宮崎のどの銀行からも、もう借りるだけは借りておると言う様な状態の中である。だからその四百万という、まぁ金額がどうにも欲しい。
 出来ないがどうしましょうかというて又かかってきた。神様がお許し下さったんですから、おかげになりますよと、そんなら手紙をあのう出させて頂いておりますから、それに対して返事を頂きます様にと言うて手紙がきておりましたから、すぐそれにこうしなさいあぁしなさい、銀行はこの銀行に行きなさいという指図を頂いて、その銀行に行かれた話がこれに書いてあるんです。読んでみましょうかね。
 私はもうたびたび手紙が来るとに、親神様ということを一番始めに書かれますから、あぁこれは天地の親神様の事を言いよんなさるとじゃろうと思いよったところが、段々だんだん読ませて頂くうちに、親神様は私の事らしいんです。生神様とか、金光様とか言う人は手紙の中でも沢山ありますここでは。けれども親神様と言う人はこの人一人です。そういう頂き方なんですよね。
 親神様、日夜御取次ぎ頂きました有り難くお礼申し上げます。七月十二日、拝辞の有り難き御神意書、手紙を頂いてというとこを、御神意書と頂いておられるんですね。有り難き御神意書を、御神米様を頂き、高鍋信用金庫、宮崎北支店長、長尾照様に面会致しました。川添様も同道されました。川添様から支店長に私の借り入れの話より、合楽教会の親神様の高徳なお話しをされました。
 私は何しても支店長にお見せせねばならんと持参の御神意書と、御神米様を見せ、御神意書を支店長に見聞きして頂きました。これも何かのご縁ですねと言われ、又網さんからの電話で来店される時の時間を申し上げ、「電算機が故障で心配しておりましたところ、網さんが来られてすぐ動くようになりました。不思議ですね」と言われました。支店長が「月々にお参りされる時は私に連絡をして下さい、神様にお礼させて頂きますと言われ、川添様、私はやっぱ信者友達なんです川添さんは。
 私は支店長様の心に頭が下がりました。支店長様私はお金を支店長の言われる事にね、「私はお金を貸し付けるのではなく、使って頂くのです」と言われ、支店長様の心の本意を有り難く頂きました、親神様の一部始終の御神意の配慮、有り難くお礼を申し上げるばかりです。親神様にお礼を申し上げ、又お取り次ぎお届け致しました以上、何しても高鍋信用金庫支店長に融資して頂きました。
 金額四百万円五年間月賦返済は親神様に近い、迷惑をかける事なく、商売で収入を上げ親神様、支店長様に喜んで頂ける時を夫婦して努力致します。お取り次ぎ親神様御願い申し上げます。七月二十一日四時二十分無事融資して頂きました。御礼申し上げます。抵当設定切り替えの手続きを致しました。有り難く御礼申し上げます。まぁ文面はこれだけですけれども、この中にもう本当にもうとにかく喜びを一杯感じるでしょう。初めて行くその銀行でですね、私は貸し付けるのじゃない使うて頂くといわれた。
 この頃から電話かかってきた時には、銀行は貸すのが商売ですから、とも言われたと言う風に言っておられました。そしてあのうとにかくあのう金を借りに来たということよりも、合楽のいわゆる御神意書をもって行って先に見せたと、合楽の事を先に話したと、そしたら支店長さんが言われる事がね、不思議な事じゃありますよと、合楽の金光様ちゃあ大変な神様らしいですね、これは電話口の先で私が聞いたお話しです。それが今まで止まっておった電算機がね、あなたがみえた途端に動き出したと。
 もうそれだけでですね信用されたとか、それだけで貸す気になられたという感じが致しますね」。もうどんなに考えても考ええられない働きというものが、こげんしてあっとります。今日はねそういういうならシャープなおかげとでも申しましょうか、その凄まじいまでの、天地のはたらきというものは、何時もあってる訳です。凄まじいおかげがいつもあっておるのです。けれどもその頂き方がです、親神様として頂けば親神様としての、そういう働きが受けられるということでございます。
 私は今日はね、この御理解の芯ではないと思いましたけれども、教祖様がやはり、皆んなが参ってくる、大谷の生神様と言うて参ってくる。その手代わりをしておるものでも、だから皆んなが神様と心得て参ってくるから、と言う風に言っておられるのですけれども、これは教祖様にして言われなさった事であろうと思うのです。私共信心もでけんそれこそ不行き届きの事ですけれども、ここで皆さんが本当に親先生、即金光様として皆さんが頂いたおられるところに、金光様としてのはたらきが頂かれる。
 凄まじいまでの働きがれこそ降るようにあっておる、その頂き方がです、合楽の親先生じゃなくて、もうこれは実感ですから口まねとかだけじゃいかんのです。親神様としての頂き方ですから、親神様のそうした凄まじいはたらきを、その場その場で受けていくことが、出来られておるということが分かりますね。そこでならここに御神縁を頂かれた人達が、はぁなるほど神様のはたらきだなぁ、凄まじいものだなと。
 先日ここの屋根が今銅板になっております。末永先生が表に出たところが職人さん達が話しておるのに、ここに三日間雨が降らんならばいいけど、本館の上ではあるし漏れどんしたら大変だから困るという話をしておった。それで末永先生がそこで聞いて、そんなら親先生にお取り次ぎお願いしなさい、おかげ頂きますよというてそしたら職人さんがそんならお願いして下さいというて、職人さんと二人でやってきた。
 その時分はもう毎日が降ったり照ったりの状態の時でした。それからあのうお取り次ぎをさせて頂きましたが、私は二日間テレビで同じところを見せて頂いたんですけれども、天気の予報があっておりました。それにこのう福岡県、佐賀県この辺の近所はぜんぶ曇り後雨と全部報じてありました。ところが筑後地方だけは曇り後晴れ、曇り後晴れというのが二日間続きました。そういうお取り次ぎをさせて頂いて、はぁ神様が筑後地区にだけおかげ下さるなぁと私は思いよった。
 ところがちょうどその中の日に嫁が田主丸に買い物があって出掛けたところが、もう田主丸のすぐそこまで行ったら土砂降りだった。ここへ来たら降ってないけん、まぁ不思議なこっちゃあるとまぁ言うて帰ってきた。ちょうど熊谷さんが表に出られたら、久留米の光橋先生が今度は久留米の方からやってみえて、もうびしょ濡れになってみえられた。あらあっちは雨ですか、はいそこまで降っとりますよとこういう。もう熊谷さんもびっくりされたという話を昨日しておりました。
 末永先生はちょうどその日、最後の日にここの屋根に上がって仕事をしておられる上で眺めよった。ところがパーッと雨降ってきてここの道の横まで土砂降りじゃった。もうそのう身がとにかく神様をそこに見る気がして、もう身の毛もよだつ思いをしたと言うております。まぁそういう働きというものは、合楽でおかげを頂いた方達は皆んな知ったり聞いたりしておる事ですよね。
 そういう働きという天地の凄まじいまでの、そういう働きを合楽では現しておるという事実なんです。だからその事実を知った時に、親神様と言わずにはおれなくなったのではなかろうかと私は思います。だから親神様がそう言う様な、それこそシャープな凄まじいまでの働きというのを、受ける事が出来ておられるものを、受ける事が出来ておられるということでございます。
 例えば今まで動かなかった電算機が網さん、あなたがみえた途端に動き出しました、不思議な事ですねと、もう不思議な神様のはたらきを、支店長に感じさせてござるですもんね神様が。だから後の話はさらさらっとした事です。とにかく銀行というところはね、私は貸し付けるのじゃあない使うて頂きたい。銀行というところは借って頂くためにある所ですから、と

 ここまでで音声元は終わっている。

まで言わせる程の事までなって来た。
 そういうなら支店長の親切、又は神様の思いに対してです、なら四百万円の金はありますけれども、それを扱うのに不都合、不行き届きがあっちゃならんと言うて、また一生懸命にお願いしてある訳であります。もう本当信じ信じられるということは、素晴らしい事ですよ。そういうね、信ぜずにはおられないと言う様なはたらきが、そこにいつも起きておるのですけれども、私共の頂き方がです、いうならば網さんが言われるような、実感を伴のうた神様としての頂き方、が出来てないと言うより外にはありません。
 毎月お参りをしてみえて、網さん達夫婦が参ってみえたらいっときは頭が上がらんです。一カ月間におかげを受けた事を思うたら、もう胸に込み上げてきてから言葉にならんのですよ。もうそれこそ信心嫌いであった、息子達夫婦も信心する様になり、信心の勉強会のときには必ず、子供達夫婦も一緒に参加するように、段々おかげを頂いとります。今日は私はこの九十三節の真意ではないと思いますけど、神の守りとしているものを神と心得てというところを聞いて頂きました。
 だからあなた方は私を神と思いなさいよ、親神様と思いなさいというのじゃないです。ここに現れておるおかげを本当に頂きとめて、見たり聞いたりさせ頂いて、なるほど天地の親神様のはたらきが、金光大神のお取り次ぎのはたらきに伴って、そのように凄まじいまでのはたらきが受けられるんだ、ということを分かり頂かれたらやはり、生神様と言わねばおられないものが、生神様としてのはたらき生神様としてのおかげを、お取り次ぎ願う事が出来るということであります。
   どうぞ。